編集委員 大塚節雄
外国為替市場で1ドル=150円という円安の節目を前に攻防が続く。米国は利上げ終結がみえ、日本は金融緩和の出口も意識され始めた。昨年の円安を支えた構図は一変したはずだ。だが、その構図の変化こそが今度は日米金利差からの収益を狙う「円キャリー取引」に理想的な環境をつくり円売りを促し始めた。
9月の円相場は昨年10月の1990年以来の安値(151円94銭)にあと2円あまりに迫る場面があった。昨年をしのぐ円安が意識され始めた。
昨年は米連邦準備理事会(FRB)がインフレ対応に追われ、急激な利上げに突き進んだ。金融政策の影響を強く受ける3カ月物の日米金利差(米国マイナス日本)は勢いよく広がり、円安・ドル高も進んだ。
その後は米利上げ幅の縮小を受けて円安は一服したが、米インフレはしつこく続き、利上げの打ち止めは逃げ水のようにずれ込んだ。今年に入って日米金利差は拡大の勢いこそ鈍くなったものの、足元では5%台半ばと2000年以来の大きさになった。
米利上げの勢いや日米金融政策の方向の違いで円を売る流れは終わった。残ったのは巨大な金利差。まだマイナス金利の円でお金を借り、もはや高金利通貨と化したドルを買う。そんな円キャリー取引にとって天国のような環境にもみえる。
だが、キャリー取引はかなりの危険を伴う。いくら金利差が大きくても、それを打ち消すほどドルが値を下げてしまっては元も子もない。もうけを出し続けるには相場の安定が絶対条件だ。
カギは変動率にある。通貨オプション市場に先行き1カ月の円相場の変動がどのくらい織り込まれているかを示す「予想変動率(ボラティリティー)」は昨年、振れを伴いつつ上昇軌道を描いたが、今年に入り明確に低下に転じた。
米利上げの終わりが鮮明にみえ始めたことが大きい。FRBは丁寧に来年も当分は利下げをしないと予告までして、不透明感を取り除いた。
金利差と変動率。この2つを合成すれば、今が円キャリー取引にどのくらい適した状況かを推し量ることができる。
代表的なのが、金利差を予想変動率で割って指数にしたものだ。分子の金利差が広がるほど、金利収入は増える。分母の変動率が小さいほど、相場変動で金利収入が吹き飛ぶリスクが小さい。つまり値が大きいほど、キャリー取引に有利だ。
ニッセイアセットマネジメントの松波俊哉チーフ・アナリストは「円キャリー取引指数が0.6を超えて上昇すると、経験則として円安に弾みがつく」と語る。
8月以降、指数は0.6超が定着した。信用バブルのなか円キャリー取引が世界に広がったリーマン危機以前以来だ。松波氏は「歴史的に米利上げの停止は変動率の低下につながりやすい」として、今後は円キャリー取引が盛り上がるとみる。
米バンク・オブ・アメリカが世界の機関投資家に聞く為替・金利分野の9月の調査では、「今年最良の日本に関するトレード」に「円キャリー取引」と答えた割合は20%となり、8月の11%から上昇した。ただし為替関連では「米景気後退リスクをヘッジする円買い・ドル売り」(14%)を上回ったばかりだ。
同社の主席日本為替金利ストラテジスト、山田修輔氏は「円キャリーの環境が整っているのは確かだが、投資家の動きは鈍い」と指摘する。
リーマン危機前、円安の勢い自体はゆっくりだった。今回は貿易赤字や高水準の対外直接投資など実需面でも円売り要因がそろうなか、すでに円安はかなり進んでいる。このことが円キャリーの急増を抑えている可能性があるとみる。
もっとも、リーマン危機後は円キャリー取引の巻き戻しが強烈な円買い圧力を生み、市場の波乱要因となった。今回、取引が野放図に膨らまないとすれば、かえって緩やかな円安が長持ちすることにもつながりうる。
では日本政府・日銀に打つ手はあるのか。
変動率の低さは財務省にとって円買い介入に動きにくいということを意味する。表向き、為替介入は相場の急変動に対抗する狙いがあるからだ。
日銀の植田和男総裁は金融政策の正常化への歩みも視野に、柔軟な政策運営を強調する。だが、仮に早期にマイナス金利の解除に動いても、短期の政策金利がゼロ%になるだけ。米国との金利差を縮めるような急激な利上げは想定しにくい。
結局、米国側にインフレ収束のメドが立つか景気が急減速するなどして利下げの道筋が明確になる以外、円売りの機運をしぼませることは難しいかもしれない。日本側は昨年以上の厳しい戦いを強いられそうだ。
(編集委員 大塚節雄)