古沢満宏氏/ネイサン・シーツ氏/早川英男氏
年末まで145円中心に 三井住友銀行国際金融研究所理事長 古沢満宏氏
米経済指標が軒並み予想を下回り、市場の変調を招いた。弱い指標が続いただけか、本格的な景気後退のシグナルかを見極める必要はあるが、パニックになるほどの「サプライズ」だったかは疑問だ。
米連邦準備理事会(FRB)はインフレ抑制を最優先しつつも景気の軟着陸をめざしてきた。超過貯蓄と実質賃金の上昇が個人消費を支えてきたが、前者はほぼ使い果たし、後者の伸びも鈍った。半面、企業収益は高水準で家計のバランスシートは健全だ。米大統領選や中東情勢には懸念もあるが、景気底割れのリスクは大きくないだろう。
これ以上、雪崩をうつように景気が悪化するのを防ぐため、FRBは9月に0.5%の大幅な利下げに動く可能性もある。そのうえで年内にもう1回下げるかどうか。来年以降は物価をにらみつつ、3%近辺の金利を視野に引き下げていくのではないか。
日銀が7月末に利上げに動いたことが市場にサプライズを与えたとの指摘もある。だが、日銀の判断やコミュニケーションに問題があったとみるのはやや酷ではないか。米指標の相次ぐ下振れを前もって予想するのは難しい。
7月利上げも十分、想定できたことだ。理由の一つは円安だ。為替は金融政策のターゲットにしないという大原則はあるが、ファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)の大きな要因の一つだし、全く配慮せずに政策が運営できるわけではない。円安を物価上昇に対するリスクだと表現したのは妥当だった。
もう一つは今後の外部環境だ。7月に利上げを見送れば、日米ともに重要な政治日程を控えて不確実性が増す。9月とみられるFRBの利下げにぶつけて日銀が利上げをすれば、それこそ市場に過度の影響を与えることになる。
当面は緩和的な環境が続くだろう。内外情勢が想定どおりでも、かなり時間をかけて政策金利を1%強まで引き上げるイメージではないか。
1ドル=160円を下回る円安は主に投機によるもので、様々な分析に照らしても行き過ぎだった可能性が高い。財務省の円買い介入も、ファンダメンタルズに合致しない過度な変動に対して行動をとるという観点では適切な判断だった。日米金利差の方向性や相場変動の高まりを踏まえると、今回の「超円安」局面は終わったとみられる。
動きが急だったとはいえ、円相場は145〜150円という当面のちょうどよい水準に戻ったのではないか。日米金利差にもおおむね見合う。企業の想定レートにも近い。年末までは145円を中心に推移するとみる。かつての110〜130円に比べると、いぜん円安水準なので、企業の輸出などにはまだまだメリットも大きい。過度な円安でもなくなり、中小企業や家計の負担も軽くなるはずだ。
円安効果が落ちた株価の回復には日本経済と企業の底力が試される。企業の技術力は高く、収益力も増しつつある。政府は人工知能(AI)を軸にした成長戦略や経済安全保障の戦略、財政や社会保障改革に的を絞った政策展開で、企業を後押しすべきだ。
120円近辺まで上昇も 米シティグループ グローバル・チーフ・エコノミスト ネイサン・シーツ氏
米国経済は減速し、労働市場も需給の緩みが生じてきた。米経済が軟着陸を果たせるのか、あるいは急激な景気後退に陥るのか、まだ見通しにくい。これほど景況感が不透明な時期は私の経験上あまり例がなく、不確実性が金融市場の変動を招いている。
当社の米国経済分析チームは景気後退への懸念を強めている。後退となった場合でも比較的軽微なものにとどまるだろう。いっそうの景気減速が明らかになればFRBがより積極的な対応を取る可能性が高いためだ。
FRBは9月と11月に0.5%ずつ利下げを実施し、12月にも0.25%利下げすると予想する。その後は(景気を熱しも冷ましもしない水準の)中立金利に向けて段階的に利下げしていくだろう。個人的には中立金利が3.5%をやや下回るとみている。
11月には米大統領選が控える。エコノミストや投資家はどのような政策が打ち出されるのか冷静に見極める必要がある。選挙期間中の大げさな発言と実際の政策の間にはどうしても乖離(かいり)が生じるためだ。
民主党候補のハリス副大統領と共和党候補のトランプ前大統領は、エネルギーや金融における規制のあり方で見解がかなり異なるが、経済政策全体としてみれば実は大きな違いはそれほどない。
ハリス氏は所得が40万ドル(約5800万円)を下回る世帯への減税を続けるというバイデン政権の公約を維持するだろう。トランプ氏は25年末に期限を迎える「トランプ減税」を延長する方針だ。
米国は大規模な財政赤字と高水準の公的債務を抱える。どちらの候補が勝利しても財政赤字を削減できるとは思えず、状況はさらに悪化しうる。
おおよその推計では、今後10年間で20兆〜25兆ドルの米国債発行が見込まれる。この大量発行を金融市場は吸収しなければならない。金融不安定化やインフレの圧力が予想外に生じる可能性はある。
1980年代初頭を除くと、過去50年間で米ドルがこれほど強かった時期はなかった。今回は米国経済の相対的な強さやFRBの金融引き締めに加え、対米投資の力強い需要があった。
AI関連の大手企業が米国に拠点を置いているのも影響した。ただFRBが利下げを進めるにつれドル高は是正されるとみる。
7月上旬までの円安は日米の金融政策の方向性の違いを映したものだが、1ドル=160円を割り込む円相場はファンダメンタルズが示唆する水準を超えていた。
7月中旬からの急激な相場反発は、市場の見立ての変化が引き起こしたものだ。日銀の利上げペースは想定されていたより積極的であり、一方のFRBは金融緩和を進めるとの確信が深まった。
為替市場の短期的な予測は極めて難しいが、今から1年から1年半の時点で円相場は150円より円高・ドル安方向にあると確信している。円相場は歴史的にみて標準的な水準である120円近辺まで上昇する可能性が高い。
円高の心配は必要なし 東京財団政策研究所主席研究員 早川英男氏
日銀が大方の市場予測より早く7月に追加利上げした背景には、作戦の変更があったと考えている。
日銀はこれまで、金融正常化を急ぎすぎるリスクを重く捉え、意図的な「ビハインド・ザ・カーブ(政策が後手に回る)」の状態を作ってきた。金融政策は通常、見通しに基づいて動くが、日銀はデータが出てから動いてきた。
その結果、円安が想定以上に進んだ。消費者心理に悪影響を及ぼし、企業の値上げ姿勢に影響を及ぼす可能性すらある。日銀が、これまで意識してこなかった円安に目を向けるようになったのがこの2〜3カ月の動きだろう。
7月の金融政策決定会合後の市場は乱高下したが、今後も基本的には円安基調が定着するとみている。裏を返せば円高リスクを心配する必要がなくなったとも言える。かつては米国の利下げ局面で日銀が金利を上げることは難しかったが、今はそうではないという認識に立てる。
企業の見方も変わってきた。以前は企業業績が良くても従業員には賞与で報い、ベースアップ(ベア)はしないというのが典型的だった。円高リスクがあったからだ。
企業がベアを実施するようになった理由として、人手不足は当然あるが、1ドル=80円といった超円高はもう来ないだろうという意識があらわれている。
日本の貿易収支は赤字が常態化し、サービス収支でも海外のIT(情報技術)企業に対する支払いで生じるデジタル赤字が拡大している。所得収支は大幅な黒字だが、国内への還流は限られる。一方で個人の海外投資は膨らんでいる。円高が進んだとしても、2024年末で140円台にとどまるのではないか。
日銀は段階的に利上げするだろうが、(景気を熱しも冷ましもしない)中立金利の水準はわからない。短期金利で1%に近づいてきたら、利上げして様子を見て、また動くという形になるだろう。
これには米経済がソフトランディング(軟着陸)するという大前提がある。米国の景気が本当に落ち込み、利下げを急ぐことになれば、日銀が簡単には利上げできなくなる。為替相場は円高方向に進む可能性もある。
米経済は2〜3年前と性質が変わった。新型コロナウイルス禍で一時的な労働需給の逼迫が起きたが、今は労働供給量が増加している。若年層の労働参加率が上がり、移民も流入している。その結果、高い成長率を維持しつつもインフレは鈍化してきた。
今はFRBにとってあまり悩ましい状況ではないはずだ。インフレが落ち着いてきたから利下げしてもよいが、急いで利下げしなければ景気が悪くなるわけではない。
米大統領選で共和党のトランプ前大統領、民主党のハリス副大統領のどちらの候補が勝っても、高水準の財政赤字は残りそうだ。トランプ氏は減税を打ち出し、ハリス氏はバイデン政権と同じように比較的大きな財政支出を伴う政策を踏襲する可能性が高い。どちらが勝利しても、インフレがぶり返すリスクはくすぶる。
〈アンカー〉相場の安定は米国次第
市場の急変動を経て円相場はどこに落ち着くのか。古沢氏とシーツ氏は1ドル=160円を下回る「超円安」はいったん終わったと読む。早川氏は国際収支の変容を理由に140円程度を上限に円安の定着を見込むが、円高に苦しむ時代の終了を前向きにとらえる。
古沢氏は円相場が今回の急伸の結果、どんな企業にも家計にも居心地のよい「適温」になったとみる。日銀の7月末の利上げが仮にリスク覚悟の「円安是正戦略」だったとしたら奏功したともいえる。
だが、株安に伴う日銀への批判は今後の政策運営を縛りかねない。内田真一副総裁は性急な利上げを否定して火消しを図ったが、円安修正は代償に見合うものだったか。
今後は市場激震の震源となった米景気や、米大統領選次第の面も大きい。円相場の安定が約束されたわけではない。